いちばん好きなバンド/ミュージシャンは?ときかれたら、真っ先に頭に浮かぶ名前がある。
解散してから2年と半年経つけど、揺らがずにずっと、いちばんすきで、いちばん大事なバンド。
思えば初めてライブハウスに行ったあの日からずっと、(ひとつを除き)誰にも見せるでもない日記を残してきた。
これも、この2年半で思ったことを忘れないための、独り言みたいな日記。
別にブログにせんでいいんやけど、手書きするにはあまりに長い。それだけのやつ。
2年前に2ヶ月かけて、終わりの儀式をしっかりやり遂げられたおかげで、「復活すればいいのに」とか「いなくなって寂しい」とか、そういう気持ちは自分でも驚くほど少なくて、思いのほか気は確かでいる。
気持ちの大きさは変わらず、へこんだ夜にはあのDVDを繰り返し見たし、仕事行きたくないな、と思う朝には彼らの曲を選んだ。
会いに行く、だった彼らはすっかり内在化され、「胸を張って会える自分でいたい」は弱った時の大きな指針であり続けた。
4人ともが大好きで、あの4人だったからああいうバンドだったんだろうし、だから惚れ込んだ。
核になるのはこの2人、という感覚。
もしだれかがこの日記を読んだとしても、この文章に1ミリの悪意もないことだけは理解して欲しい。
同郷だから、だけじゃない。
地元に居た時もそういえばはじめから認識していた2人。関西で再会した時も居続けてくれた2人。
そしてこの2年、より多く会えたのも、この2人。
かれらに出会った高校生の頃、聴いて感じたのはカタルシスだった。すくいあげられた、という感覚。自分のことも見えない10代の、うすらぼんやりとした世界への鬱屈。
OVER以降は、空を飛んでいきそうな勢いを、自分に無いものを持つ人へのあこがれの目線で追い続けた。20代、真ん中。
いまおもえば事務所にいた時期の、空を飛んでいきそうなかっこよさ、ってのがもしかしたらギタリストから発せられたもので。
今思えば後期にあたる、地に足を着けて真っ直ぐ前を睨んだ、ずしりと重たいロックンロールの「ショー」。
それが複数人の性格が足されて混ぜられて、バンド(集合体)としてひとつになったもの、だったとしたら。
あれは2人のどちらでもあったけど、どちらでもなくて。「自分ではない」は、得てしてながく続けるには無理のあることだったのだろう。
自然なことだったのだ、と、いまは思う。
そのバンドでボーカルだった彼は、あの後すぐにソロで活動し始めた。わたしは迷いなくついていった。そして、「おかえりなさい」と思った。
個人的な悩み事なんて話したことはない。わたしのことを歌っている、とも思わない。
全部を自分と重ねて聴いてるわけじゃないことも強調しておく。鴉や三つ数えろのような鋭い強さを私は自身に求めないし、レイラみたいな運命の相手もいたことはない。昔からハートブレイク曲がやたら多いけど、わたしにそんな経験はない。
渡せなかった手紙の中身も違う。
それなのに。
座り込んだ10代は卒業して、自分の足元や輪郭が見えてくる変化を、多少なりきっと同じようにたどって。
内面の擦り傷や泥濘を、放っておくと際限なく沈んでいく心を、自分が嫌いな自分を、この人は拾ってくれる。
この感覚が、あの頃と同じだった。
彼の歌はときにわたしよりも雄弁にわたしを語る、と言ったら自意識が過ぎるか。
どれほど言葉を尽くしても他人に伝えられない部分を、ときに知られたくはない部分を、「このひとはわかってくれている」と思えてしまう。
だって、これは歌だから。
そういう歌だから。
こういうところが「スーパー」なのだ。
この幅広い曲のそれぞれを、これらを心のうちに同居させるこの人を、敬ったり愛おしかったり痛かったり救われたり、何せひとことでいえば、こころから好きで。
バンドの頃とはちがったり、確かに同一人物だとも思ったり、ただより生々しく、一貫して、信じられる歌に。
ライブで言うと、MCは変わった。
これは、(今日は)こういう曲。だから、いまここでうたう。曲を通して何を私たちに言いたいのかを、ぎちりと伝えるための足がかり。
わたしたち、客への気持ちも繰り返し話してくれる。つまりは愛で。だからわたしもここにいて良いのだと。さすがに自惚れていいよね。
ひとり対多数じゃなくて、「シンガーソングライターひとり」対「ファン1人」がたくさん存在する、って感覚。
もっと具体的で個人的なエピソードを残しておく。
ライブの予約を本人にDMで送ると、定型じゃないお礼のメッセージがかえってくる。しかも私がとりあえずどこに住んでるかわかってる。
予約したライブが中止や延期になったら、公式発表のまえにDMで教えてくれる。
ひとりでTwitterでわめいてると見つかるらしく、時々リプやいいねが飛んでくる。
サイン書いてくれるとき、「苗字変わったんだよね?」って何故か知ってる。
誕生日ワンマンの数日後、今年は私は何も言っていないのに「誕生日おめでとう」ってDMがくる。
わたしが“いつもサイレントで帰る”ことすらもバレている。
など、など、など。
彼そのものに違いない人間臭さ溢れる曲にも言動にも、ぶれや矛盾がないもんだから、こんなに捻くれたまま大人になってしまったわたしも、彼だけは信じる他にないのだ。
この人、2年をかけてこの感覚をどんどん掘り下げてきた。怖い。沼の深さがえげつない。やばい。
嘘のない彼の歌をこのまま、どうかこのまま、なるたけたくさんの人が聴いてくれたらいいよなあ。
全世界の人間を8種類くらいにわけたとしても、多分同じタイプに入れると図々しく思っている。わたしが超頑張って超ニンゲンみがいたとして、そしたら1ミリくらい近づける気がするのだ。